1994年、ロサンゼルスに渡り、デザイナーから彫刻家へ転身。
即興性を大事にしながら生み出される作品は、今や多くの公共空間を彩り、人々を魅了し続けています。
様々な素材を扱う中で、五十嵐氏が“特に楽しい”と語るのは、土のしごと。
1999年、五十嵐氏が初めて土と対峙した場所。それが、大塚オーミ陶業でした。
あれから15年が過ぎた2014年、五十嵐氏が台湾へ設置するために制作した作品は、今までとは違ったカタチをしていました。
信楽の地で次々と自由に繰り広げられる五十嵐氏の制作活動とエピソードを、インタビューを通し振り返り、ものづくりに対する考え方、姿勢、そして、“土”に対する想いを伺い、お伝えしたいと思います。
【略歴】
1944年、北海道滝川市生まれ
1970年、東京で独立 デザイナーとして国内外で25年の活動
代表作にニューヨーク近代美術館のカレンダー、王子製紙、サントリーホール、多摩美術大学のロゴ、地場産業の技術を生かした一連のプロダクト、立体アルファベット他
1985年、ロサンゼルスと東京の二カ所を拠点とする
1994年、50才で彫刻家に転身
2005年、アメリカから帰国 三浦半島の秋谷に住居とアトリエを構え、現在は制作の日々
2011年より、多摩美術大学学長を務める
著書「あそぶ、つくる、くらすーデザイナーを辞めて彫刻家になった」(ラトルズ刊)では、海と山に恵まれた里山で楽しく制作する様子が写真と文章で綴られている
彫刻の代表作に、東京ミッドタウンの彫刻「予感の海へ」、滝川市一の坂西公園の彫刻「Dragon Spine」、赤坂Kタワーの彫刻「The mother earth」、札幌駅のJRタワーパセオ地下広場の「テルミヌスの森」など
自らの手で作ることにこだわり続け、公共空間などに数々の抽象彫刻を制作設置している
1989年勝見勝賞、2005年毎日デザイン賞特別賞受賞。故郷滝川市では、デザイン・アートで町を再生するプロジェクトNPO「アートチャレンジ滝川」を設立し、地域活性にも力を注ぐ
2011年、北海道新十津川町「かぜのび」(アトリエ+ギャラリー)がオープン
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第1回 であい
■ 土との出会い -大塚オーミ陶業 信楽工場-
1999 年、五十嵐氏は初めての土のしごとのため、滋賀県信楽町にある大塚オーミ陶業を訪れました。
当時、都営地下鉄大江戸線大門駅のアートワークとして、五十嵐氏の作品が採用となったのですが、提案用に制作したマケットは木製でした。地下鉄内に使用する材料は、不燃材でなければならないと法律で定められているため、クライアントから焼き物はどうかという打診がありました。
焼き物での制作はしたことがないし、大塚オーミ陶業という会社も知らない、信楽という場所にも行ったことがない…そんな中での初訪問だったそうです。
- 初めて土の制作をされた時の印象や、弊社に対する印象など、お聞かせいただけますか。
初仕事は、地下鉄大門駅だよね。あの当時はロサンゼルスに住んでいたから、メールで事前に、どんな仕上げにしたいかというやりとりもしていたのですが、お互いにまだよくわからないということもあって。
それでいざ、信楽工場を訪れたら、大量の仕上げのサンプルを用意して待っていてくれました。本当にあれはすごい量だったよ。素焼きのものから釉薬をかけたものまで。また、その釉薬の色の種類がものすごくて。
制作する場所に行くと結構な人数が集まっていて、僕の一挙手一投足を見てるんですよ(笑)。
何をやるのか?ってね。僕もちょっと緊張してしまった。
- 沢山の目のある中での制作ということだったんですね。
そうです、そうです。しかも、みんなプロですから。僕は全くの素人で…。
- 全然そんな風には見えませんでしたけどね。
いやいや。それでもう、困ったんですよ。どうしようかってね。僕はそれまで石を彫っていたんですけど、それもスケッチがあるとかイメージして何かをつくるとかではなく、ダイレクトカーヴィングといって、石に向かって彫りながら、石に教えてもらいながら制作すると、だんだん自分のつくりたいものが見えてくる、というスタイルでした。
テラコッタ(土)の仕事も基本的にそういうことしか出来ないという思いがあったんです。技術も無い、知識も無い。それで、ちょっとね。僕はつくる前に準備したいって。これも咄嗟に言ってね。慣れるまでの時間稼ぎです。(笑)あのときの緊張感っていうのはねぇ、忘れられない。
そして、工場の周囲をめぐってみると、いろんなものがあるわけです。転がっているもの、捨てたもの、ゴミ、枯れた植物…。まともな道具を使ったら、僕はみんなの前で恥じかくなって。絶対に陶芸をやる人が使わないものを道具にしようと思って、色々なものを集めた。
- おびただしい量が収集されていましたよね。
お米なんかも使ったしね。
- 当時の写真を見ると、竹べらなどの道具と一緒に、植物や色々なものが入ったバケツがあるな、と不思議に思っていたのですが、後の写真を見るとテクスチャに使われたのですね。
“のた(※1)”にまぶした天ぷらみたいなね。(笑)まぁ、そうやっていろんな事をして、周りの人を唖然とさせておいて始めたんです。
(※1 陶芸用語。「沼田」の変化した語。泥、泥土、ぬるぬるしたものなどの意)
釉薬の知識もないし、そういうとこで頑張っても仕方ない。「素焼きでやります。」と宣言して始まった。
それからはもう、やり直しをしないのが僕のつくり方なので。まあ、初めてのことだったから多分いっぱい失敗するだろうなっていう予想はしていた。でも失敗は、全部神様の贈り物ということで切り抜ける(笑)。
そう。即座にですけど、初めの2日間くらいのあいだで方法論みたいなのを組み立てて、あとはもう、つくるだけです。
- つくるときは、感じるままにつくられたのですか。
うん。考えたって仕方ないから。5分10分練習したって意味がない。いきなり本番。
初めてのゴミ(道具)を手に取ったら、とりあえずそれでできそうなことをやる。という連続でつくったのが、大門駅。そして、それが15年間続いています。(笑)
やってみたらとても面白かったんですよ。子どもの頃に粘土で遊んだことが思い出されて、本当に良い時間を過ごせた。
初めての土の仕事の面白さ。
五十嵐氏は、考えるよりも先に体を動かし、土の声に耳を傾けながら制作していきました。順調に仕事をすすめた最後の最後に、五十嵐氏は大胆な行動に出ます。
作品中央の大きな面にいきなりざっくりと彫りを入れたのです。そのときの気持ちを伺いました。
- 岸上(※2)から、途中まではマケットのとおりに仕事が進んでいるなと感じていたそうですが、最後の最後に、ど真ん中の部分にいきなり彫りを入れられてびっくりした、という話を聞きました。それもその時、即座に決められたのですか。
次やることにそれをフィードバックすればもっと良くなるわけでしょ。
あの時は、大きな面を削り取って絵を描くようにしたんだけど、それは、変わったことばっかりごちゃごちゃやってきたけど、一発ここで描いてみろって、それしないとまずいぞ!って(笑)。そう感じて。だからやったんだよ。
(※2 五十嵐氏担当の弊社従業員)
下の段から順番につくってきて、自分でパッと思いつく様なおもしろそうなところはもう既にやってしまっていて。それで、中央にパーンと出てくる大きな面をどうしたらいいか、正直…ちょっと困った。でも、やらなければいけない状況でしょ。
その時にひらめいた、土が教えてくれた、そういう状況に追い込まれた結果こうなった。
でね、これをやったらすごく気持ちよかった。
自分が予想していないものができてきたんですよね。
“子どものようにつくりたい”…
そう語る五十嵐氏の子ども時代の土との思い出をお話しいただきました。
遊びたいんですよ。
遊びっていうのはそう考えてしないでしょう?深く考えてそこから結論を導き出して実行するということになると、それは、作業になっちゃうんで。
僕は子どものように遊びたい、子どものようにつくりたい。だから、ものづくりは遊びじゃなくちゃいけない、遊びは楽しくなくちゃいけない。理屈なんかいらない。そこに行きたいんでね。
僕の子どものころなんかは、粘土なんか売っていませんでした。田舎でね。画材屋さんというものがないし、普通の文房具屋さん。そこに粘土があったのかなかったのか…。学校に行くと、図画工作の時間で粘土が出てきましたけど、本当の土の粘土じゃなくて…
畑というか水田の横とか小川が流れている湿地帯みたいなところに粘土が露出しているようなところが所々あるんですよ。それを友だちと探しに行って。
はっきりとは覚えていないけど、そういう不気味な美しい色の部分があって、その横にあるような土が結構いい粘土で、それをとってきて何かをつくって遊ぶ。おもちゃのあんまりない時代ですから。
- 自然の中で自分で見つけてきて遊ぶということですね。
そう。一番覚えているのは近所の子ども達と一緒につくった粘土のお面。
- それは、形をつくって乾かして固めるといったものですか。
うん、自由に簡単にできるでしょ?
被って手で押さえないと重いから、いわゆる紐でしばって顔につけるようなことはできないんだけど、すごい怖いお面を作って驚かせようと…。
それでね、みんなで作って風呂敷を頭巾のように被って、お面をつけてね、夕方薄暗くなってから大人達を驚かして…その驚いた顔をみるのが楽しいんですよ。
それが子どもの頃の粘土の思い出。
- 子どもの頃のまま大人になっちゃったという感じでしょうか。(笑)
笑顔を見ていると、五十嵐先生は、きっとほんの2、3歳の頃からこういう顔で笑われてたのだろうなと思います。そういう無邪気さというのは、意識はされていないかもしれないですが、どうやって維持されているのでしょうか。
単純なんだよ。男は(笑)
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■ 信楽での出会い
五十嵐氏の“道具探し”は大塚オーミ陶業の工場内だけには留まらず、信楽町内にも広がり、繰り出した先で、地域の協力的な住民に借りた物なども道具のひとつとして制作にいかしました。
五十嵐氏が信楽という場所に来るときの楽しみ、また、そこでの出会いを聞かせていただきました。
- 信楽にくるときに先生が楽しみにされていることはありますか?
おそば。このあいだ信楽に行った時は、3日連続で行きました。(笑)
- 「作美」(そば処)のですか?おそばがお好きなんですね。
僕が知り合って食べに行く様になってからは、作品ができると、あそこのご夫婦を招待して、見てもらっているんですよ。
僕が大塚オーミ陶業に行くようになって、自分で車を運転していると、朝宮(信楽町朝宮)のところに小さい看板でそばって書いてあって。おそば屋さんができたな、行きたいなあと思っていたら、笹山先生(弊社元顧問)が「おそば食べに行きませんか?」と、誘ってくれたのがたまたまそこだった。それが最初。
- 人気のあるおそば屋さんだと聞いています。そんな間柄になられているんですね。
食べるものってすごく大事なの。体にいいとか悪いとかっていうことじゃなくて。僕にとって食べることはヒントを与えてくれる。
それはデザイナー時代から、そうですけどね。アイディアに困るとおそば食べてた。(笑)
若い頃は自慢じゃないけど、車で運転して通るところにあるそば屋は全部入っていた。
子どもの頃から本当におそば好きなんだねって言われるくらい食べてたの。
- そうでしたか。(笑)食べ物からヒントを得るという感覚が今ひとつわからないですが。
ひとつは気分転換。これは絶対にあるよね。
あとは、シンプルな食べ物であるということ。食べているといろんなアイディアが浮かぶ。
- おうどんじゃダメなんですか(笑)?
おうどんじゃダメ。スパゲッティもだめ。
スパゲッティだったら色んな味があってアイディアは、もっと浮かびそうなもんだけど、ダメ。
おそばは、意識しないで食べられるところがいい。
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